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    直方って、どんなとこ?

    直方(のおがた)市は、福岡県の北部に位置し、遠賀川、彦山川、犬鳴川が合流して1本の大河(遠賀川)となり、遠賀川が市の中心を南北に貫き流れています。九州で唯一鮭が遡上してくる川としても有名な遠賀川は、東に福智山、西に六ヶ岳といった山々を望みます。こうした盛りだくさんの自然は春夏秋冬、心癒される風景を魅せてくれます。自然だけでなく、炭鉱から生まれた「成金饅頭」など遠賀川が育んだ食も大変人気があり、魅力的なポイントです。

    いつでも、どこでも皆様が訪れるたびに「お!」と思う発見がある場所、それが直方というところです。

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      過去から未来へとつながる直方の歴史

      そのそばには、いつも遠賀川がありました

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      古墳(水町遺跡)

      古代の人々の暮らしを豊かにした遠賀川

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      近世(高取焼)

      殿様への贈り物を届けた遠賀川

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      近代(石炭関連)

      日本近代化の原動力を運んだ遠賀川

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      全ての命を育む遠賀川~遠賀川と共に歩む直方~

      さぁ、直方の歴史をつなぐ旅に出ましょう

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    直方のこと、もっと知りたい

    直方のシンボル遠賀川。現在でも直方と遠賀川は切っても切れない関係を持っていますが、その関係は直方で唯一、縄文時代から変わっていないことでしょう。縄文時代から炭鉱、そして現代へと何千年にわたる歴史の中で、どの時代も直方は、遠賀川との様々なストーリーをつむいできました。そのストーリーを、未来へとさらに育てながら、100年、200年先まで繋げたい。直方と遠賀川にはこんなつながりがあったんだ!と気軽にご覧いただけたらと思います。それでは、どうぞご覧ください!

     

    直方にも海があった!?(縄文時代)


    縄文時代の海岸線(想定図)

    鯨歯製装飾品

    県道直方芦屋線が犬鳴川を渡る天神橋は昭和11年(1936)に架けられました。この工事中に下新入側で、直方出身の考古学者、沢井一雄(さわいかずお)氏が貝塚を発見しました。この貝塚は天神橋貝塚と呼ばれています。この貝塚では今から約5千~3千年前の土器が出土しています。縄文時代は、今より温暖だったため、現在より海水面が3~5m程高く、現在の遠賀川下流には古遠賀湾(こおんがわん)と呼ばれる入海がありました。鞍手町新延(にのぶ)貝塚、同古月(ふるつき)貝塚、北九州市八幡西区楠橋(くすばし)貝塚、同寿命(じめ)貝塚など縄文時代の貝塚を結ぶと当時の海岸線を復元することができますが、天神橋貝塚はその中でももっとも上流に位置しています。

    天神橋貝塚では、海水の貝と淡水の貝の両方が見つかっていて、すぐ近くに河口があったのでしょう。また、この貝塚では、マッコウクジラの歯に穴をあけて加工した長さ10cmもある首飾りが出土しています。当時、直方に住んでいた縄文人は、入海にはいりこんできたクジラをはじめ、魚や貝といった海や川のめぐみを生活の糧としていたのです。

    遠賀川の川底にドキ土器!(弥生時代)


    下境向峯遺跡出土土器(群像)

    平原池ノ上遺跡住居

    弥生時代になると、朝鮮半島から稲作や青銅器などが伝わってきます。弥生時代の初め頃には、遠賀川式土器という土器が出現します。これは、遠賀川の川床にある立屋敷(たてやしき)遺跡(水巻町)から最初に見つかったため、「遠賀川式土器」という名前がつけられており、表面に模様をつけた壺形土器などが特徴的です。遠賀川式土器は北陸まで到達しており、青森県でも影響を受けた土器が出土しています。直方市内でも彦山川に面した高台にある下境向峯(むかいみね)遺跡(直方第一中学校周辺)から、多数の遠賀川式土器が見つかっておりまた、新出河床(しんでかしょう)遺跡(菜の花大橋の北側)からも遠賀川式土器が採集されています。市内の弥生時代の遺跡は、彦山川や遠賀川、犬鳴川など大きな川に面した高台に多くつくられています。

    弥生時代の水田ははじめ、水の確保が簡単な低湿地や谷部に多くつくられました。市内でも、遠賀川沿いの台地周辺にある低湿地や谷部に水田がつくられていたことが考えられますが、まだその証拠は見つかっていません。 直方平野が広がり、大きな川のそばに高台があるなど、洪水や災害が起きても影響の無い丘陵地が多い直方市内は、弥生人にとっても生活のしやすい場所であったに違いありません。

    遠賀川だけじゃない!水のめぐみ(古墳時代)


    水町遺跡公園空撮

    小野牟田横穴出土鉄刀

    弥生時代、列島に広まった稲作によって、人々は安定した生活ができるようになりました。直方市内では、おおむね大字にひとつかふたつは古墳群(横穴墓群)がありますので、稲を栽培する集団があちこちでムラをつくり、その中でも裕福な人々が古墳に葬られたのでしょう。

     水田をつくるためには、川から水を引くことが不可欠です。しかし、遠賀川・彦山川のような大河は、その土地の一番低いところを流れているので、水を確保するためには、かなり上流から水をひいてこなければなりません。しかも、遠賀川の周辺は地盤が悪いので、直方から下流では、江戸時代になるまで、本格的な用水を引くことはできませんでした。 しかし、遠賀川の支流では、比較的簡単に水田のための水をひくことができます。福地川周辺は、市内の支流の中ではもっとも広い平地が広がっています。福地川に面した上境の水町遺跡では市内最大規模の横穴墓群が広がっています。また、隣接する惣用遺跡では市内で最古の古墳がみつかっています。 その背景には、福地川のもたらす「水」のめぐみがあるのです。

    日本を救った?直方の米(中世)


    粥田荘の範囲(想定図)

    光福寺遺跡航空写真

    粥田荘(かゆたのしょう)は、現在の宮若市の東半、直方市の大半、小竹町、鞍手町の一部、旧頴田町の大半、北九州市八幡西区の南部に広がっていた、遠賀川流域最大の荘園です。平安時代末頃は、粥田経遠(かゆたつねとお)という武士の領地でした。粥田経遠は平氏方でしたが、源平合戦で平氏が負けた後、領地は源氏のものとなり、北条政子が所有していました。しかし、政子の息子で、鎌倉幕府三代将軍の源実朝が亡くなると、政子は夫と息子の供養(くよう)のため、粥田荘を高野山の金剛三昧院(こんごうさんまいいん)に寄進(寄付)しました。粥田荘で収穫された米は、年貢として遠賀川を川舟で下り、芦屋の港で大きな船に積み替えられて、瀬戸内海を通って、大阪の堺で金剛三昧院側に引き渡されました。

     文永11年(1274)、元寇がおこると、鎌倉幕府は粥田荘からの収入を元寇襲来のための警備の費用にあてました。かわりに河内国(現大阪府東部)の新開荘を金剛三昧院に与えましたが、元寇がおさまった弘安9年(1286)、粥田荘を金剛三昧院に返還しています。

    粥田荘の米は、中世最大の日本の危機を乗り切る「糧(かて)」となったのです。

    大根川の伝説(中世)

    直方市永満寺には、「大根川」の伝説があります。

     弘法大師(空海)がこの地で修行をしていたとき、川で大根を洗っている女性にであいました。大師が彼女に「修行中でおなかが空いているので、その大根を一本くれませんか?」と頼んだところ、彼女は「あなたのような、みすぼらしいお坊さんにはあげられませんよ。」と答えました。すると、大師は神通力(じんつうりき)で川の水を干上がらせてしまい、女性は大根が洗えなくなって困ったということです。

    福地小学校の東側あたりの福地川は、普段はごつごつした岩ばかりでほとんど水が流れていません。これは、このあたりが扇状地(せんじょうち)になっていて、川の水が伏流(ふくりゅう)となって地下を流れているためです。少し下流には「泉」という地名があり、伏流した水が湧き出ていたところで、水の神様をまつっています。水町遺跡もこの場所のすぐ近くにあります。このような科学的知識のなかった時代に伏流という不思議な現象から、このような伝説が生まれたのでしょう。

    また、永満寺を含めた粥田荘は弘法大師が平安時代に開いた真言宗の聖地である高野山領であったことから、このような伝説となったのでしょう。粥田荘を管理した荘屋敷所在地の有力候補である下境の光福寺周辺には、たくさんの弘法大師伝説があります。また大根川と同様の伝説は全国各地に分布しています。

    殿様への贈り物を届けた遠賀川(高取焼)


    高取焼窯跡分布図

    内ヶ磯窯跡出土椀

    高取焼は、黒田長政が朝鮮半島に出兵したとき、連れ帰った陶工、八山(はちざん)に開かせた焼物で、鷹取山のふもとではじまったことから、この名があります。焼物の生産には、材料となる粘土、燃料となる薪、釉薬(ゆうやく)の原料などが必要ですが、それに加え、きれいな水がなければつくることができません。江戸時代の窯場は例外なく清流に面した場所につくられています。

     高取焼発祥の窯である永満寺宅間窯は、福地川の支流の身老川(みおいがわ)の上流に、二番目の内ヶ磯窯は福地川に面しています。窯の周辺で採集された粘土をこねたり、粘土を水にひたして不純物を取り除いたり、釉薬を合成したりするのに、小川の水が用いられました。

    内ヶ磯窯跡で生産された織部好みの茶陶のうち、もっとも出来のよいものは、福岡藩主から贈り物として他の大名家などにさしあげました。それに次ぐ品物は、遠賀川を下り、芦屋の港で大きな船に積み替えられ、瀬戸内海を通り大阪の港で再び川舟に積み替えられて京都に運ばれ、三条の「せともの屋町」で、全国各地の著名な焼物とともに売りさばかれました。このように、焼物の流通にも水運は大きな役割を果たしました。

    城下町を支えた「水」(江戸時代)


    須崎町公園出土井戸

    多賀町公園出土井戸

    元和9年(1623)、福岡藩初代藩主、黒田長政が死去すると、四男高政に支藩(分家)を継がせるよう遺言しました。長政の遺言では支藩は鷹取城跡につくるようになっていましたが、豊臣家が滅亡し、平和な世の中となった当時、山の上にある鷹取城や、山のふもとでは交通が不便なので、黒田家の重臣たちが付近を見てまわり、遠賀川と彦山川が合流する、現在の直方の地を支藩の場所に決めました。今の市街地は、この時代の城下町を基礎としています。

    城下町には、多いときで、藩士とその家族がおよそ3千人、商工業者とその家族を含めると、合計4千人前後の人々が生活していたと思われます。当時は現在のように水道はありませんから、生活のためには井戸水は不可欠です。直方駅前の須崎町公園遺跡では3基、多賀町公園遺跡では2基の井戸がみつかっています。多賀町公園遺跡で出土した石組みの井戸は、城下町時代の武家が用いていたものですが、そのすぐ近くでみつかった瓦を使った井戸は、この地に邸宅を構えた炭坑経営者の貝島太助が用いたものと思われます。これらの井戸は、現在埋め戻されて見ることはできませんけれども、それぞれの屋敷の敷地や、長屋の一角に井戸が掘られ、直方という「都市」に住む人々の「命の水」となっていたのです。今も直方市街地の地下には江戸時代の人々の暮らしを支えた多くの井戸が眠っています。

    山田川用水と岡森用水(江戸時代)


    岡森堰絵図

    現在の岡森堰写真

    大河は、その地域のもっとも低いところを流れているため、中小河川に比べて治水(ちすい)は困難です。遠賀川下流域に広がる低湿地は、その大半が「そうら層」と呼ばれる軟弱地盤のため、ほかの大河以上に農業用水を引くのは難しく、長く葦原(あしはら)などとなっていたようです。江戸時代になって人口が増加すると、米の増産が必要となって新しい田んぼをつくり始め、遠賀川下流域では、長く手付かずだった低湿地の開発が始まります。明暦2年(1656)、犬鳴川に花ノ木堰(はなのきぜき)の仮の堰が築かれ、万治元年(1658)、正式な堰が完成して、山田川用水が引かれて、遠賀川左岸に位置する現在の鞍手町や中間市、遠賀町の低湿地が水田に変わっていきました。岡森用水の開発はもっと遅く、感田村の大庄屋・渡辺善吉らが奔走(ほんそう)し実現しました。明和7年(1770)、彦山川の下境猪久保(いのくぼ)に仮の堰を築き、安永3年(1774)には上境の現在地付近に正式な堰が築かれました。この開発によって、下境、赤地、頓野、現在北九州市八幡西区に属する木屋瀬、楠橋などの低湿地が水田になりました。このように、江戸時代のはじめ頃と、終わり頃では遠賀川に面した平地の景観は一変し、広い葦原が水田へと姿を変えました。

    しかし、堰をつくるということは、水の流れを悪くしてしまう(岡森堰の知恵比べへリンク)ことでもあります。岡森堰では大雨のとき、たびたび上流の鋤木田村などに洪水をひきおこし、国境をはさんで堰をこわそうとする豊前側と、守ろうとする筑前側との間で論争が巻き起こりました。上境村の大庄屋・加藤嘉敦は、堰を大改修するとともに、豊前に何度も足を運び、補償額を決めるなどしてこの問題を解決しました。

    日本近代化の原動力を送った遠賀川(近代)


    C11機関車

    遠賀川を通行する川ひらた

    江戸時代は、農業が国の基本的な産業であり、身分も固定され、石炭を大量に使う機械の製造や造船(重化学工業)もなかったので、石炭生産は藩によって統制され少量が瀬戸内地区の塩田用に売り出される程度で、大きく発展はしませんでした。しかし、明治時代になって「鉱山解放」が行われると、筑豊地区や粕屋地区などで多くの炭坑が開かれました。初期の炭坑掘削は水との戦いでした。当時は動力ポンプが無く、人力で地下水を排水していたので、効率が非常に悪く、特に梅雨どきには石炭を掘ることができませんでした。貝島太助は直方の切貫(きりぬき)炭坑でポンプの導入を試みましたが残念ながら実用には至りませんでした。明治13年(1880)、杉山徳三郎(すぎやまとくさぶろう)が飯塚の目尾(しゃかのお)炭坑ではじめてスペシャル・ポンプの実用化に成功し、それ以後、坑内の排水環境は飛躍的に向上しました。

    石炭の輸送方法ははじめ、川ひらたと呼ばれる川舟が使われたため、川に近い炭坑がまず開発されました。最盛期の川ひらた数は8000艘をこえていたそうで、大河が合流する直方や植木は、川港として繁栄しました。石炭は遠賀川河口の芦屋港のほか、江戸時代に掘削された運河である掘川を経由して、若松港にも多く運ばれました。

    一方、石炭輸送のため、地元の石炭経営者とともに三菱などの大企業もお金を出し合い筑豊興業鉄道が敷設されました。後に石炭輸送は、川ひらたから鉄道へと徐々に移り変わっていきます。筑豊興業鉄道は、明治24年(1891)、直方・若松間が開通予定でしたが、6・7月の大洪水の被害により開業が2ヶ月遅延し、ほかにも川に近い炭坑が水没するなどの被害が出ました。このような洪水がその後もたびたびあったので、明治39年(1906)、遠賀川改修工事予算が衆議院・貴族院で可決されました。大河の堤防かさ上げなどの大事業は全国的にも早い取り組みで、石炭産業を側面的に支援した国策であったことを示しています。この工事によって、遠賀川の堤防は現在の高さまで大幅に継ぎ足され、洪水の被害は大きく減りました。工事は大正6年(1917)完成しました。

     

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