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    ネットなのに現地説明会⁉(第1回・古町遺跡の巻)

    2020年05月12日更新

    令和元年度、直方市では、発掘調査を4件おこないました!この数字、直方市にしては多い数字なんです。時には、発掘調査の現場が1つしかない年もあったり…多ければいいということでもないのですが、少ないというのも担当者としては複雑なものです…

    さあ、気を取り直して!本日から、4回に分けて令和元年度に調査した遺跡の現地説明会をバーチャルミュージアムでやってみたいと思います。外出自粛のこのご時世…みなさまに、少しでも現地説明会(外出)気分を味わってもらえれば、すごく嬉しいです!それでは、まず1つ目の現場です!!


    直方市の中心地、古町。古町には、アーケードで連なる商店街が存在していますが、その歴史をご存知の方は多くないかもしれません。直方市には、1623年~1720年の約100年あまり、東蓮寺藩(とうれんじはん)(後、直方藩に改名)という、福岡藩の※支藩(しはん)がありました。福岡藩の支藩は、よく知られている「秋月藩(現・朝倉市)」とココ「東蓮寺藩」の2つしかなかったんですよ!すごいですねー直方。
    支藩があったということは…そう。多くの武士たちが直方にも住んでいました。すると、生活するために必要なものを売るため、多くの商人がやってきます。そして、商店街が完成するのです。古町商店街は、何を隠そう、江戸時代から400年続く、伝統ある商店街なのだ!!

     

    ここで、調査を担当した「T学芸員」に登場してもらいましょう!\パチパチパチー/

    ―こんにちは。今日はよろしくお願いします。ちょっとよく分からないのですが…東蓮寺藩ってなんなのですか?

    (T)はーいこんにちはー。Tでーす。よろしくお願いしまーす。東蓮寺藩ですね!私に任せれば問題なしです。引かずについてきてくださいねー。
        まずですね、福岡藩の初代藩主・黒田長政が、1623年に亡くなってしまうんです。その時に「※鷹取城(たかとりじょう)のふもとに城下町をつくりなさい」と遺言を残しました。そして、まだ幼少であった、4男の高政が東蓮寺藩初代藩主となり、支藩が成立したんです。

     

    ―あれ…?鷹取城のふもと?今の街中と全然場所が違うのですが…

    (T)ふっふっふっ…そうくると思ってましたよ。まんまと質問してきましたね…
    鷹取城は、標高630mの山の山頂にあるお城ですね。こんな山のふもとに城下町をつくっても、不便だと思いません?しかも、山のふもとは狭く平地も少ないので、町もつくりにくい!なので、家臣たちが話し合って、交通の便も良い、遠賀川のすぐそばに城下町をつくろう!と決めたのです。
    そして、約1年をかけて町がつくられ、1626年に※町割(まちわり)が完成したんです。なので、あと6年(2026年)で、商店街ができて400年になる、という計算なんですよー。
     

    ―そんな歴史があったんですね…そういえば、そもそもここは、どういった場所なんでしょう?

    (T)今回紹介する「古町遺跡(ふるまちいせき)」は、古町商店街の一角。私たちは、広い意味で、武士たちが住んでいたお家を「武家屋敷(ぶけやしき)」、都市部にある上から見た敷地の形が短冊形(商人の店舗兼住宅が多い)のお家を「※町屋(まちや)」と呼びます。直方市では、今まで武家屋敷の一角を発掘調査したことはありましたが、な・ん・と!町屋は今まで発掘調査したことはなく、記念すべき初めての調査でした!
     

    城下町時代の直方の地図「直方惣郭図」上で見る古町遺跡(●の位置)

    城下町時代の直方の地図「直方惣郭図」上で見る古町遺跡(●の位置)

    ―な、なるほど。ではいったい、どういったものが見つかったのですか?

    (T)残念なことに、明治時代以降にこの場所で生活を営んでいた旅館や、文房具店で使われていた遺構(庭園の池や水槽)により、調査箇所の多くが壊されていました…が、しかし!江戸時代後期(1800年代)の水路のあとなどが見つかったんです。この水路は、居住地と道路の間に作られた、排水のための溝だと考えられます。さらには!当時の人が使っていたかもしれない!? 井戸の跡も見つかったんですよ!

    調査区西半部(右側奥に見える溝が水路跡)

    調査区西半部(右側奥に見える溝が水路跡)

     

    調査区東半部(左側に見える石のある穴が井戸の跡)

    調査区東半部(左側に見える石のある穴が井戸の跡)

     

    井戸跡の拡大

    井戸跡の拡大


    ―でも、どうして江戸時代の後期だとわかるのですか?不思議なんですけど。

    (T)それはですね、水路の跡から、その時代に使われていたお茶碗やお皿などの陶磁器が見つかったんです。私たちは、遺跡や遺構から見つかった土器などの遺物から、その遺跡の時代を考えているのですよ!えっへん。
    そしてそして、江戸時代前期(1600年代)までさかのぼる、古伊万里焼も見つかっています。これは、この地が約400年前から、城下町の一角であったことの証拠にもなるのです!いつの時代かはわかりませんが、箱庭道具と考えられる、陶器もありました!かわいくないですかこれ!!
     

    古伊万里の小杯(約350年前のもの) 素焼きの箱庭道具(年代不詳)
    古伊万里の小杯(約350年前のもの) 素焼きの箱庭道具(年代不詳)


                                      


    ―まぁ、かわいいかもしれませんねー。皆さんは、かわいいと思います?本日の説明は以上…で…よろしいですかね?いやーT学芸員、熱い説明でしたね。ありがとうございました!現場からは以上です!


    さてさて…まだまだ調査が進んでおらず、当時の商店街で人々がどのような暮らしをしていたのか…よくわからないことも多いのですが、伝統ある商店街の歴史を解き明かす、記念すべき第一歩として暖かく見守っていただければありがたいです!
    このように、街中で発掘調査をしていることもありますので、何かやってるなと見かけた際は、お声掛けいただけば、遺跡の説明をさせていただくこともできます!
    さーて、次回はどんな遺跡でしょうか!更新までしばしお待ちください!
     


    ●用語解説でーす。ご覧くださーい。
    ※支 藩:江戸時代、大名(藩主)が自身の弟や次男、三男などの一族に対して領地を分与することで、新たに成立させた藩のこと。
    ※鷹取城:詳しくはこちらのページをご覧ください!
    ※町 割:町をつくるために、土地を区画すること。ここに道路を通して、ここにはお店をつくって…など、都市計画の意味で使われることもあります。
    ※町 屋:道路に

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