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    「筑豊炭田遺跡群」 国指定史跡に!

    2018年06月16日更新

    「筑豊炭田遺跡群」国指定史跡に!

    国の文化審議会は、平成30年6月15日、直方市の「旧筑豊石炭鉱業組合直方会議所(きゅうちくほうせきたんこうぎょうくみあいのおがたかいぎしょ)(現石炭記念館本館)」及びその裏手に存する「救護練習所模擬坑道(きゅうごれんしゅうじょもぎこうどう)」を含む筑豊炭田遺跡群(ちくほうたんでんいせきぐん)を、新たに国の史跡に指定するよう、文部科学大臣に答申しました。今後、官報告示を経て、直方市はじめての国指定文化財になります。

    筑豊炭田遺跡群は、直方市の「旧筑豊石炭鉱業組合直方会議所及び救護練習所模擬坑道」のほか、田川市の「三井田川鉱業所伊田坑跡(みついたがわこうぎょうしょいたこうあと)」、飯塚市の「目尾炭坑跡(しゃかのおたんこうあと)」で構成されます。

    このたび直方市では、官報告示に向けて、ホームページで、「旧筑豊石炭鉱業組合直方会議所及び救護練習所模擬坑道」の歴史的意義と、その魅力について、みなさまに少しずつご紹介していきたいと思います。

     

    第1回『筑豊石炭鉱業組合直方会議所の誕生』

    明治2年(1869)、新政府による鉱山開放が行われると、多くの事業者が炭坑を乱掘するようになりました。こうした弊害をなくすため、政府は同業組合をつくるよう促し、明治18年(1885)、日本ではじめて結成された近代的な同業組合が、筑豊石炭鉱業組合です。
      明治41年(1908)9月、組合の常議員であった麻生太吉より直方に「本組合議事堂兼支部(ほんくみあいぎじどうけんしぶ)」の建設が提案されました。当時、組合本部は若松にありましたが、飯塚、田川など遠賀川水系上流域に住む炭鉱経営者にとっては、洞海湾に面した若松の地は遠く、直方に会議拠点を置くことが求められたのでしょう。

    こうした経緯により、明治43年(1910)に、建設されたのが、筑豊石炭鉱業組合直方会議所で、現在の石炭記念館本館です。木造2階建て、瓦葺の洋風建築で、平成28年度に教育委員会が実施した調査により棟札が発見され、長瀬兵馬(ながせひょうま)が設計し、現在の鴻池組(こうのいけぐみ)が施工したことがわかりました。2階には広い会議室があり、この場所に、貝島太助、麻生太吉、安川敬一郎をはじめとする地元の炭鉱経営者や、三菱、三井、古河など中央資本の現地責任者が集い、炭鉱経営、石炭輸送、鉱山保安など、多岐にわたる議題について、激論を戦わせました。

    大正時代の採炭制限による炭価調整は、後に石炭鉱業連合会によって全国に広がり、日本の近代経済史上でも特筆されます。若松などの貯炭場に石炭が余りはじめると炭価が下落するので、送炭や出炭を制限し、価格を調整しました。現在、原油価格の高下によって、世界中が一喜一憂するように、当時、筑豊石炭鉱業組合が直方で行った炭価調整に、日本中が注目していました。

     

    旧筑豊石炭鉱業組合直方会議所

    旧筑豊石炭鉱業組合直方会議所(現石炭記念館本館)

     

    棟上げの様子

    筑豊石炭鉱業組合直方会議所上棟式(明治43年4月20日挙行)

     

    棟札

    石炭記念館の小屋裏に現存する棟札

     

    棟札に「筑豊石炭鉱業組合」の文字と設立者や設計者等の名前がある。棟札裏面には「明治43年4月20日吉祥」と刻まれている。

    棟札の表裏

    棟札の縮尺。

    棟札の表裏

     

     

    直方会議所の敷地買収を検討する組合常議員会の議事録

    直方会議所の敷地買収を検討する組合常議員会の議事録(明治42年5月27日)

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